昭和四十三年十一月十七日
X 御理解第九十三節
氏子は神の守をして居る者を神と心得て参詣する。
守が留守なら参詣した氏子は、今日は御留守ぢやと言おうが。
神の前をあけておく事は出来ぬ、万事に行届いた信心をせよ。
常平生心に裃を着けておれ、人には上下があるが神には上下がない、人間は皆同じように神の氏子ぢゃによってよって、見下したり、きたながったりしてはならぬぞ。
ここで
氏子は神の守をして居る者を
神と心得て参詣する、
と言うておられますが、はたして、神の守をして居る者を神と心得て参って来ておるだろうかと言う事。
又は、神と心得られておるだろうかと言う事。
取次をする者、取次をさして頂く者は、ここのところを、猛反省させていただかねばならんと思うのです。
もちろん、ここで言う神とは、、天地にへん満しておられる神を言うのでなくて、生神金光大神と言う事である。
けれども仲々、神と心得られない。
ここのところを、よく分からないと、金光様の信心の一番有難いところ、生神金光大神の御取次を頂いて、御取次の働きが、この様な事になってきたと言う事になるのですけれども、氏子は神と心得て参って来る。
果たして、神と心得させるだけのものがあるだろうか、又、皆んなは、そこに誰が座っておっても、神と心得て、お参りが出来るであろうか、ここんところが一番難かしい様に思うのです。
二、三日前、心霊手術と言うテレビの特別番組を見させて頂きました。もう驚くと言うか、びっくりすると言うか、もう、お話にならん。ここに神様を見ると言う感じがしました。
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それを見せて頂いておる時、頂きました事がね、
「信じ、信じられよ」
と頂きました。「神は信ずる者を信ずる」とおっしゃる、それとは、ちょっと違う感じです。
いわゆる今日の、
氏子は神の守をして居る者を、
神と心得て参詣する。
神と信じられなければならない、私が、……為には私が神様を信じなければならない。
私が神様を信じ、皆さんが私を信じて下さる。
天地の親神様の働らきと言うものが、例えば怪我をしましてもです、この体を作って下さった神様に、修繕を頼んだが一番早い。例えば自動車を作った人が自動車の修繕をするのが訳ないように、人間の体を作って下さった神様に、修繕を頼んだが一番いいのだ。
だから、その人は人間の肉体と言うものに於ては、天地の親神様と同根なのである。同じ働きを持ってござる、もう、この人間の体を作ったのと同じだけの力を持ってござる。 はら ですから、どげな修繕でも出来るのである、腸わたを、出しきっておってから、しかも、手術のあともかたも、つかんと言う様に、しかも、そのまゝ、はい済みましたよ、と言うて、次々と帰って行っておる患者の姿を見てから、それを思うのです。
天地の徳と言うか、力の、確かに。この体は天地の親神様が作られたんでなあ、だから神様が、こう言う素晴らしい、徳を受けたら、そんなおかげが受けられるのだ。
そうゆう医学の上では分からない奇跡的な、おかげの例は、ここにも、いくらもありますよね、あの亡くなられた上滝さんなんかは、ぞく粒結核でしたが、全快のおかげを頂いた時には、あともかたもなかったのですから、事実、だから自分はもう、ぞく粒結核じゃなかったごと言うておったのですから、 たま 福岡の松岡さんなんかは、間違いなしに空気銃の彈が目の中に入ったのですから、それが、お夢の中で、手術をさせて頂いて、あとかたもなくなった。
もう天地の親神様の手術を受けるのですから、やはり、あともかたもなくなってしまう訳です、そう言う事が、例えば、ここでも沢山あって居りましたですね。
ですけれども、ここで思わして頂く事はね、そう言う私共の体の修繕さえしてもらえば、ですよ、人間が幸せであるかと言うとそうではないでしょうが、
そこで私が感じておることです、はゝあ、これは、いよいよ大した事だと思うのです、以来、私は、この二、三日、昔、私が言いよ
った事を言うのです。
もう亀の背中に乗っておれば、絶対おかげは間違いない、竜宮行きは間違いなか、私が、おかげを受けておるから、私の言うとうりにするならば、おかげの頂だけんはずはない。と言う事を、私は、信じておるのです。だから、皆さんも、それを信じて下さらないかん。
私がその事を信じ、皆さんも、私のそれを信じて下さる。
そのフイリッピンの人が頂いておられると言うのは、天地の親神様の働きの中の、この体を作られる程しの働き、だから、それを修繕するのには、あともなからなにゃ、かたもつかん様に、天地の親神様の出来なさる、そのものを、受けておられる訳です。
と言って、その、怪我が治る、病気が治るだけで、人間が幸せかと言うと、そうではない。そしたら、その上滝さんが、その時に言うておった。あんた、みよってごらん、おかげ落す見本になるよと、言うておったが、やっぱおかげ落す見本になった。
そんなら松岡さんちの純子さんも、そう言う、おかげを頂いたから、現在本当に幸せかと言うと、そうじゃないです、信心すらが段々出来なくなっておるんですものね。
ですから、そう言う想像もつかん様なおかげを受けると言う事が、幸せには、つながらないと言う事。私の場合は、どう言う様な意味の事を言うておるかと言うと、心の傷とでも申しましょうか、心の手術とでも言おうか、これは私を信じて、私に手術をさして下さるなら、もう後も片も無い様に、私は手術がさして頂ける気がするんです。それを、私は信じます。
私は例えば、一辺に傷を、癒やす事は出来ない。手で手術をすると言う事は出来ない、
けれども、人間の真実の幸せ、と言う事に於てはです、本気で親先生まかせになり、親先生を信じて、かゝってくるならば、私は出来ると言う信念を、私は神様を信じておる。その事ならば、
もう親先生任せになる、そこまで信じられる、私がそう頂いてもらい、皆さんが頂かれるところまでいったらです、どの様な心の傷でも、いやす事が出来る。跡形もない様におかげ頂ける、しかも、それは、人間の真実幸せにつながる事の出来れる、おかげを受けられると言う事なんです。
氏子は神の守りをしておる者を
神と心得て参詣する
と、おっしゃるが、せっかく信心させてもらうなら、そこ迄、皆さんも信心を進めなければいけない。
神と心得て参ってこれるところ迄、私も又、皆さんに神と心得られるところ迄、いよいよ神を信じて、そこだけは神様の働きと同じものが表わす事の出来れる、おかげを頂きたいと、こう願っておる。 その為に次のところがあるのです、その為に、神の前をあけておく事は出来ん、万事に行届いた信心をせないかん、常平生、裃をつけた様な心持で信心せなならない。
人には上下があるが神には上下がない、とおっしゃるから、きたながったり見下したりする事が、あってはならない。 こういうところを私は一生懸命、精進しとる訳です、それは、どう言う事の為かと言えば、皆に神と信じられなければならない、神と思うてもらわなければならない、金光大神の真実、お手代りの出来れる先生だと、ひとつ皆さんから信じてもらわなくてばならない。 そして私は、どう言うお取次をさして頂くかと言うと、皆さんの心の中にある傷だらけのものをです、無傷状態に、しかも、跡形もない様に出来れる私は特別な、言うなら霊能とでも申しましょうか、そう言う働きの出来る事を、私は頂いておると言う事。
けれども、私を信じて下さらなければ、それは出来ないと言う事。それは、私は朝の毎日の御理解を頂くたんびに思うのです。
これは、私が話しよるのじゃない、神様が話ござる、と私は、そこんところを頂いていく。だから、なる程皆さんも、あれは大坪総一郎のはなしよるのじゃない、神様が話しござるのだと、信じて頂かせてもらえる、しかも、そこを、信じて行じさせてもらえる、おかげを頂く事によってです、本当の人間の幸せにつながる事が出来る。
それは、病気も癒えるだろう、又経済問題も変わってくるだろう、人間も出来てくるだろう、
そう言うおかげが頂けるのが金光様の信心であり、又、合楽の御広前だと、………………
そして、それが、いよいよ、そう言うお取次を頂く事の出来れる為の、精進を、私は日夜その事に取組んでおると言う事。
私が神様を信じ、皆さんが、その私を信じて下さる、信じ信じられよ、とこうおっしゃる、信じ信じられよ事になったら、どの様な事が出来てくるだろうか、大変な事である。
そう言うおかげを皆さんが目指してもらわなければならない。
「信じ信じられよ」ここに私は、金光教の独壇場と言うか、お取次の有難さと言うか、取次をする者が神を、いよいよ信じ、取次を受ける者がいよいよ、取次者を神と信じられる、修行をさして頂だかな、いかんと思うのです。 どうぞ
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